前回の末尾で、日本IBMがAS/400の発表にかつてないほど力を入れた理由はAS/400の卓越性にあった、と書きました。今回はその卓越性を探る前段として、AS/400の誕生前史に触れてみます。
本コラムの初回で紹介したように、AS/400は1988年6月に発表されています。資料によると「28カ月で開発した」とのことです。これは、当時のミッドレンジ・マシンの開発期間が48~60カ月だったことを考えると、「異例」と言える短さです。なぜ、このような短期開発になったのでしょうか。
AS/400の開発に着手する直前の欧米におけるIBMの中・小型機ビジネスは、日本よりもさらに深刻な状況にありました。
IBMは1975年に「システム/32」、77年に「システム/34」、83年に「システム/36」を発表し、80年代前半までは順調にシェアを伸ばしていました。そして78年には、世界初のRDB内蔵、単一レベル記憶、48ビット・アドレシングという、当時としては超最先端の機能を備えた「システム/38」をリリースしました。ところが、このマシンは出荷直後からトラブル続きで、市場的な成功を収めるには至りませんでした。
そこでIBMは、当時、中・小型機市場で破竹の勢いでシェアを伸ばしていたディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC。現在はHPに吸収)の「VAX」に倣って、1982年に「Fort Knox(フォート・ノックス)」と呼ぶ新しい開発プロジェクトを立ち上げました。
その当時、IBMの中・小型機には、システム/36、システム/38、シリーズ/1、8100システム、システム/370エントリー機という5系統の、相互にまったく互換性のない、開発・製造も別々の場所で行われていたマシンがありました。「Fort Knox」はそれらの優れた機能を統合し、DECの「VAX」のような単一シリーズのマシンを開発するプロジェクトだったのです。
しかし、Fort Knoxプロジェクトは「5年の歳月と数十億ドル」を投じたにもかかわらずあえなく挫折し、IBMは1985年にプロジェクトの中止を決断します。そしてさらに悪いことに、IBMではFort Knoxによる“先進マシン”を見込んで既存マシンの開発をすべて中止していたため、80年代中盤には他社に対抗し得る有力なミッドレンジ機がまったくないという危機的状況に陥ってしまったのです。1970年に33%あったIBMの中・小型市場のシェアは、85年には9%にまで落ち込んでいました。
ここで、“救世主”が登場します。Fort Knoxプロジェクトの挫折を“予感”していたIBMのロチェスターに勤める5人のエンジニアが、システム/36のコードをシステム/38で稼働させるプロジェクトを会社には内緒で1985年春から密かに進めていたのです。そして6月にはプロトタイプを完成させ、12月にロチェスター開発研究所の上級幹部向けにデモンストレーションを行いました。
このデモンストレーションは大成功を収め、「大絶賛を博した」と、プロジェクトの詳細をつづった本(『The Silverlake Project: Transformation at IBM』)は記しています。そして年が明けた1986年初め、当時のCEO、ジョン・エイカーズ氏は正式にプロジェクトを承認し、新しいミッドレンジ・マシンの開発がスタートします。これが現在のIBM iにつながるAS/400のスタートです。
ただし、条件が1つ付けられていました。それは「2年半で開発を終える」という異例の条件です。中・小型機ビジネスで危機的な状況にあったIBMには2年半の猶予しかなかったのです。
新しいミッドレンジ・マシンの開発プロジェクトは、「シルバーレイク・プロジェクト」と名付けられました。5人のエンジニアたちが密かに進めていたプロジェクトの名称です。