連載コラム|探訪 Inside the IBM i ~(2)AS/400、1日前倒し発表の事情

前回の末尾で、AS/400はなぜ日本だけ1日前倒しの発表になったのか、というクイズを出しました。

答えは、日本IBMが1日前倒しの発表にこだわり米国本社に強い申し入れを行ったため、となります。あたり前すぎて、「な~んだ」という感想でしょうか。それとも「なぜ?」という疑問がわいてくるでしょうか。

実は当時、日本IBMは主力のメインフレーム事業だけでなく中小型機事業もいろいろと問題を抱え、“嵐の前夜”という状況にありました。売上自体は、1980年度~1989年度の10年間に3300億円から1兆3100億円へと急成長し、絶好調であったかのように見えます。しかしメインフレーム事業は80年代後半にははっきりと陰りが見え始め、その落ち込みを何かで補填する必要に迫られていました。中小型機も1980年代のOAブームに乗って順調に伸びていたものの、快進撃を続ける国産メーカーのはるか後ろをついていく状況でした。

その当時の緊迫した状況を、当時の社長の椎名武雄氏は次のように回想しています。

「1990年、日本IBMは大波にのみ込まれた。この年、経常利益が前年に比べて2割も落ち込んだのである。翌91年には売り上げもマイナスに転じ、経常利益は90年をさらに3割下回った。コンピュータ業界を震撼させるダウンサイジングの波が押し寄せてきたのだ。

予兆はあった。IBMはもともと、大型コンピュータを大企業の情報システム部門に利用していただいてきた。ところが、80年代になるとオフコンやパソコンといった小型機が登場する。大企業の地方支店や工場、中小企業もコンピュータをどんどん購入し始めた。日本IBMも80年代前半から、中小企業や地方向けの営業体制を強化してきたが、市場のすそ野が広がる勢いはそれより速く、対応が追いつかない。大型機、大都市、大企業に依存する「大艦巨砲主義」のツケが回ってきたのだ」(『私の履歴書 外資と生きる』、日本経済新聞社)

ちなみに、米IBMは1991年に創業以来初となる赤字に転落し、93年1月には日米の社長とも業績不振の責任により交代となってしまいます。AS/400を発表する1988年には、そうした会社の行く末がよく見通せるようになっていたのでしょう。それがAS/400の1日前倒しという異例の発表となり、「日本IBMは中・小型ユーザーに注力していく」という、それまでにない強いメッセージになったのです。

もう1つ、日本IBMがAS/400の発表にかつてないほど力を入れた理由があります。それは何よりも、AS/400というマシンの群を抜く卓越性にありました。それは現在のIBM iの特質につながっています。次回はそのあたりを探訪してみます。

では次回をお楽しみに。

椎名武雄著『私の履歴書 外資と生きる』日本経済新聞社

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